プクサ、プクサキナ、トゥレㇷ゚

二風谷アイヌ語教室広報紙から

1988年から2009年まで、21年間にわたって発行された「二風谷アイヌ語教室」広報紙。全89号の中には、地元で生まれ育ったフチやエカシたちが語った森・川・海にまつわる思い出や伝承がたくさん記録されています。このStoryMapsでは、プクサ(ギョウジャニンニク)、プクサキナ(ニリンソウ)、トゥレㇷ゚(オオウバユリの鱗茎)にフォーカスします。

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1945年ごろの記憶、紫雲古津

N.T.さんの証言 祖母は■■ひたきといい、この祖母から聞いた話をいくつか書きます。まず、紫雲古津にはスウンコッとニナチミㇷ゚の二つのコタンがありました。スウンコッという地名の由来ですが、その昔沙流川が暴れ大水害の時にスウンコッコタンに一つの鍋が寄り上がったそうです。そこで、鍋があった跡という意味のスウンコッと名付けられ、スウンコッに紫雲古津という漢字を当て、現在でも使われているわけです。平取町が昭和40年に紫雲古津という字名は長過ぎるので改正しようとしましたが、このように由緒ある名前であるということで改正されずに済みました。スウンコッコタンの隣にピラカコタン(現在の門別町平賀)がありました。このピラカの由来ですが、明治の大洪水の時に氷の塊がピラカコタンの後ろの山を越えていったので、ピラカと名付けられたそうです。また、その水は現在の平賀神社の下辺りまで来たそうです。

私の祖父は■■八郎といい、アイヌ名はアッタㇺといいました。祖父は明治末期か大正の初めにアイヌで最初に水田作りをした人です。沙流川流域は淡路島から多くの開拓民が入っていますが、それらの開拓民と同時に田圃作りを始めたということで、当時は20町近い土地を持っていたそうです。平取町立病院に入院されている■■ふよさんという90歳を過ぎたおはあさんによると、現在の日新建設の山側の方にあった“祖父の畑で豆落しをした”と話してくれました。

次にアイヌの生活の知恵について書きます。戦後の食糧難の時にも、山からプクサを採ってきて潰けたり干したりして保存していました。また、昭和20~24年ころトゥレㇷ゚を掘ってきて樽の中に入れ潰し、殿粉を取りそれで団子を作ったりして食べました。シサㇺであれは捨てるような実入りの悪いカボチャや豆を材料にラタシケㇷ゚を作り食ぺました。豚や馬のサカンケカㇺや味噌汁などに二シン油を入れて食べました。これらはアイヌの生活の知恵といえるでしょう。

私は昭和61年からウタリ協会平取支部の理事を務めていますが、協会自身目先の問題に振り回されているような気がします。例えば、住宅改良資金貸付額や修学資金の貸付額がいくらであるとか。ウタリ対策事業として年間いくら使われているとか。本当に重要なことは、有史以前から伝わる大事なアイヌ文化を大切にする、ということです。

明治になるとアイヌに対する同化政策が始まり、北海道旧土人保護法によりアイヌに給与地が与えられています。これは私の個人的な意見ですが、アイヌモシリはアイヌのものなのですから、給与地を与えるのは本来アイヌ側であるはずです。ところが、日本政府はアイヌの居住地を定め給与地と称して土地をアイヌに下付しています。これは本末転倒であり、日本政府は歴史的事実に目を背けてはいけないと思います。

私はウタリが我々の精神文化、物質文化を忘れるのではないかという危機感を持っています。そこで、アイヌ語教室にみんなが興味を持って1時間でも2時間でも気軽に参加し、アイヌ文化は大切だという意識がウタリの中に育って欲しいと思います。(1990年発行・第12号)

2

1992年ごろの経験、貫気別・ローソク沢

K.T.さんの証言 ――山でクマに遭ったというような、めずらしい経験などがありましたら教えてください。

K.T.さん:2~3年前、ローソク沢の奥へ「キトピロ」(行者ニンニク)採りに行ったの。その沢の奥にはいいキトビロがたくさん生えているんだけど。キトピロを採つて沢を下ってきたら、親子連れのクマがカーブしている道の下流の方にいるのさ。たまたまその時はクマよけの鈴も持っていなかったし、普段は吸わないけれどタバコを持っていっていたんで、その場で木の根に腰をおろし6本のんでねえ。タバコの煙をくゆらせて、ようやくクマの方が沢なりに逃げたおかげで、私はうちへ帰ってくることができた。

近くに住んでいるK.Y.さん夫婦も同じ頃、その沢の奥ヘキトピロ採りに行ったんだって。そしたらクマの足跡があって、私がタバコ6本ものんだ吸殻を見て「あのクマは■■ちゃんと行き遭ったわ」って、うちの父さん(且那)に言ったんだよね。

私は、うちの父さん(且那)に「もし間逹ってお前に何かあったら人に迷惑かけるのに、もう山へ行ったら駄目だ」と、すごく怒られたこともあります。(1995年発行・第38号、聞き手=貝澤裕子氏)

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1997年、貫気別・亜別沢

M.T.さんの証言 春になると姉と一緒に亜別沢へ出かけ「プクサ」(行者ニンニク)やミツバ、ニリンソウなどを採りに出かけます。山は空気がきれいなので歩くだけで気分が爽快になります。例えば、昨年も生えていた植物を同じ所で見つけると、《今年も踏まれずに生き残っていたねえ》と声をかけます。また、根元の部分ががっぽ(空洞)になっているナラの木の上にシャクナゲが生えていたりして、ナラの木が自分自身の重みに絶えかねてそのうち倒れるのではないか、と心配しながら歩き、《ナラの木頑張れよ!》と、声をかけます。その様子を見た姉は「お前は変だね」と言いますが、私は自然と触れあうのがとても好きです。秋にはマツタケなどのキノコ採りにも行きます。(1997年発行・第51号、聞き手=萱野志朗氏)

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1930年ごろの記憶 長知内トウナイ沢モルチシ

U.T.さんの証言 また、川向いの湿地へ行き八目うなぎを捕まえてそれを焼き、体の弱かった義姉に食べさせたりしました。このころは毎日ヒエご飯で、たまにイナキビの粉で作ったコサヨ(粉粥)が大のご馳走でした。イナキビを臼と杵を使って粉にするのが大変な労働でした。イユタ(搗く)は女の仕事ですが、村の中でおたがいに手間を貸し借りしていました。ハボ(母)などは手間返で夜遅くまでイユタをしていたのを見たことがあります。私も12~3歳頃にクミチ(父親)がこさえた「足バッタ」(踏み臼)でイナキビ搗きをしたことがあります。これは臼と杵で搗くみたいにうまく搗けず、なかなかピリケ(精白する)しませんでした。ペナコリにも現在の町営住宅の北側に流れている沢の近くにバッタ(水力を利用した脱雑具)がありました。私が15~6歳頃のある時、母はトウナイ沢のモルチシに行って、プクサキナ(二輪草)を一日がかりで大きなサラニプ(背負い袋)いっぱい採ってきました。それをテシカオ(糸に挟んで編む)して干し、冬の間のお汁に入れて食べました。(1990年発行・第15号)

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1955年ごろの記憶、二風谷

A.M.さんの証言 故郷の情景と共に私には祖母のことが忘れられません。祖母は最後まで、アイヌの女性として生きた人でした。しかし、孫の私は祖母のアイヌプリを何ひとつ受け継ぎませんでした。

昭和30年頃から祖母は、みさをおばさん(義理の妹)と二人でアツシ織りを始めました。私は初めて見るアツシ織リが珍しく、糸引きを手伝ったり、夕食後は、ニベシをつなぐ祖母のかたわらで過ごすのが好きでした。そこはとても暖かい所でした。また、祖母は「鶴の舞」や「ホリッパ」も上手で、声も良く、子供心に「私は不器用だから祖母のようにはできないだろうな」と思って見ていました。春には祖母と山に入り、コゴミ、フキ、プクサキナを夢中で摘んだリ、しばれたイモを拾ってペネエモを作ったり、楽しい思い出ばかりでした。

祖父はアイヌ嫌いでしたが、しょうちゅうが好きで酔っては、アイヌに戻り、友人達とヤイサマを歌い、アイヌ語の会話が始まります。それが私の耳にかすかに残っているアイヌ語の響きです。(1994年発行・第30号、寄稿)

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1938年の記憶 平取村営宿主別牧場

K.H.さんの証言 昭和13年に祖父、■■勘次郎は平取村営の宿主別の牧場で牧夫として働いておりました。この牧場ではたくさんの馬が放牧されていたものです。私は小学校の6年生でしたので、学校が午前中で終わる土曜日の午後には必ずエカシ(祖父)の働いている宿主別まで歩いて遊びに行きました。エカシへのお土産は四合瓶の焼酎です。春にはエカシと一緒に山菜を採ったりトゥレップ(姥百合)の根などを掘ったものです。この姥百合の根から取った澱粉で作った団子はとてもおいしかった。(1989年発行・第7号)

解説 山菜採りをめぐる先住権

平田剛士(フリーランス記者、森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト運営委員)

このページでは、「二風谷アイヌ語教室広報紙」に掲載されたエカシたち・フチたちの語りの中から、山菜採りに触れた部分を抜き出しました。登場するプクサ(ギョウジャニンニク)、プクサキナ(ニリンソウ)、トゥレㇷ゚(オオウバユリの鱗茎)は、いずれもアイヌ料理の重要な食材です。知里真志保著『分類アイヌ語辞典 植物編・動物編』(1976年、平凡社)から、プクサとトゥレㇷ゚の調理法の解説を引いておきましょう。

ギョォジャニンニク 若い茎葉を汁の実にした。また「とぅねプクサ」(túne-pukusa)と言って、葉を去って茎だけ塩茹でにして汁をしたみ、油であえて食うのが一つのご馳走であった。茎を細かく刻んで干して叺(かます)に詰めておき、冬に御飯に炊き込んで油をつけて食べたり、風邪・肺病その他の熱病に煎じて飲んだりした。(略)なお、この植物は猛烈な臭気を有するので、病魔が近づかぬとアイヌは信じて、伝染病流行の際は、家の戸口や窓口に吊したり、枕の中に詰めたりした他に、ほとんどあらゆる病気に用いた。(以下略)(知里真志保著『分類アイヌ語辞典 植物編・動物編』p195) オォウバユリ エゾウバユリ 6月末から7月初めにかけて、鱗茎を掘ってきて、そのまま炉の熱灰の中に埋けて焼いて食べたり、よく洗って細かく刻んで「サよ」sayó[粥のこと、日本語の「白湯」から来た]の中に炊きこんで「アふンパ・トゥレㇷ゚・サョ」[a(我ら)-humpa(刻んだ)-turep(姥百合根)-sayo(粥)]にしたり、細かく刻んだのを生乾しにして臼でつき、円盤状に丸めて干し固めたりした。(以下略)(知里真志保著『分類アイヌ語辞典 植物編・動物編』p198)

これら山の幸が、地元アイヌの毎日の暮らしを支え、地域性ゆたかな食文化を育んできたのは間違いありません。まさに〈山はアイヌにとって、いつでも食料貯蔵庫であった〉(文・萱野茂、写真・清水武男『アイヌ・暮らしの民具』クレオ、2005年、p133-135)の言葉どおりです。「二風谷アイヌ語教室広報紙」の話者のみなさんは、少なくともそれぞれが回想する時点まで、確かにその文化を受け継ぎ、次世代に伝えようとしておられます。

ただ、上に引いた萱野茂さん(1926-2006)のフレーズが「貯蔵庫であった」と過去形で語られている点を見逃すことはできません。

同じ平取町二風谷在住の貝澤正さん(1912-1992)は、晩年の著書にこう書き残しました。

〈私達の住んでいるコタンの裏山の過半は三井山林となっています。平取(びらとり)・二風谷(にぶたに)・荷負(におい)・貫気別(ぬきべつ)・長知内(おさちない)・振内(ふれない)などのアイヌ人口の多い村落で、なぜ元から住んでいるアイヌに薪材も取る山さえないのか〉(貝澤正「三井物産株式会社社長への訴え」『アイヌ わが人生』岩波書店、1993年、p191)

同書によれば、平取町の山林の65%が国有林、30%が私有林、5%が町有林です。また、町内の私有林面積の57.3%にあたる1万732haが「不在町者」の所有林でした(1986年現在)。このうち、三井物産が平取町内に所有する森林面積は、1936年の時点で6079haに達していました。

ここ150年ほどの歴史を確認しておきましょう。ヤウンモシㇼ=北海道島を含むアイヌモシㇼのアイヌは1869(明治2)年、和人に植民地化され、一方的に日本国家に組み込まれます。森林を含むすべての土地が、植生もろともいったん「官有」(日本国有)とされ、政府自身がオーナー兼ブローカーとなってその切り売りに励むようになります。

下のグラフは、1886(明治19)年から50年間の北海道の森林の所有者別シェア(面積比)の推移を表しています。1897(明治30)年3月の北海道国有未開地処分法の成立を経て、20世紀を迎えたころから民有林(道有林・町村有林・私有林)が急速にシェアを伸ばしているのが分かります。

北海道の森林シェアの変遷 北海道『北海道山林史』(1953年)p9の一覧表「北海道森林所有別面積の変遷」の数値に基づいて作図。同一覧表は、1906(明治39)年までは北海道史第7巻及国有林事業成績より、1911(明治44)年度以降は「北海道森林統計書」(大正4年発行)及1921(大正10)年度以降1939(昭和14)年度まで毎年発行された北海道庁拓殖部編「国有林事業成績」による。

アイヌにとっては、まさに先住民族としての権利の侵害そのものの政策でした。この経過は、アイヌ民族のサイドから〈土地も森も海もうばわれ、鹿をとれば密猟、鮭をとれば密漁、薪をとれば盗伐とされ、一方、和人移民が洪水のように流れこみ、すさまじい乱開発が始まり、アイヌ民族はまさに生存そのものを脅かされるにいたった〉(「アイヌ民族の関する法律(案)」1984年5月27日、社団法人北海道ウタリ協会総会において可決)と、批判されてきました。

さて、プクサ、プクサキナ、トゥレㇷ゚は、森の中のやや薄暗い「林床」と呼ばれる環境に群落をつくる植物ですが、カラマツ(外来樹種)などの人工造林地では、これらの山菜はほとんど採れません。平取町では、コタンに近くてアクセスしやすい場所はおおむね針葉樹の人工林に置き換わっています。

平取町二風谷周辺の森林の樹種別分布図(国有林を除く)。 画像をタップすると「ほっかいどう森まっぷ」(北海道水産林務部林務局森林計画課提供)にジャンプします。

さらに二風谷地区では、1996年の二風谷ダム完成にともない出現した「にぶたに湖」が、沙流川のせせらぎを河畔林もろともおよそ200haにわたって水没させました。K.H.さんが、かつて祖父と一緒にトゥレップ掘りをしたと語る宿主別地区では、すぐ近くに完成した平取ダムによって、沙流川支流額平川や宿主別川沿いのおよそ310haがダム湖の底に沈んでいます。

「先住民族の権利に関する国連宣言」は、先住民集団に「土地や領域、資源に対する権利(26条)」「環境に対する権利(29条)」を保障しています。日常的な「山の幸」の利用は、各地アイヌ集団にとって重要な権利ですが、それは、日本の法律・制度や自然環境の改変によって、著しく妨げられた状態にあります。


利用上の注意 このストーリーマップス「『二風谷アイヌ語教室広報紙』から」は、同広報紙の編集責任者で、現在は萱野茂二風谷アイヌ文化資料館館長を務めていらっしゃる萱野志朗さんから、「森・川・海のアイヌ先住権を見える化するプロジェクトに、ぜひ役立ててほしい」と、この貴重な資料の提供を受け、その全面的な協力のもとに制作されました。萱野さんをはじめ、この広報紙の執筆・編集・発行に尽力されたみなさん、また登場のフチ・エカシのみなさんに、心から感謝します。

プライバシー保護 このストーリーマップスの元になった「二風谷アイヌ語教室広報紙」(印刷版、CD-ROM版)の記事には、証言者のお名前は実名、また証言に登場する人名も実名で記録されています。そこから抜き書きにした文章を利用し、ストーリーマップスとして広くインターネット上に公開するにあたり、ご本人やご家族に間違っても不利益が及ばないよう、すでに著名な人権活動家のお名前をのぞき、原則として証言者のお名前はイニシャルに変え、証言に登場する人名は姓を■■で伏せました。

ご利用を歓迎します このストーリーマップス作品は、証言者・執筆者・編集者・制作者とも、著作権を放棄していません。どうぞその権利を尊重してください。しかし、かんたんなルールさえ守っていただければ、コピー&ペーストの引用・転載をむしろ歓迎します。ルールとは、 (1)記事の一部を切り取って元の記事の主旨を曲げたりしないこと、 (2)引用元を明記すること、 (3=ウェブの場合)引用元にリンクを張ること、 の3つです。インターネット上に限らず、地域のみなさん同士の会合などで、このストーリーマップスを共有し、議論を深めるためのツールとしてお役に立ててもらえれば幸いです。(平田剛士/森・川・海のアイヌ先住権プロジェクト 2023年10月15日記述)

出典(底本) 平取町二風谷アイヌ語教室『二風谷アイヌ語教室広報紙創刊号~第89号(電子版)』(2016)

資料提供:萱野志朗/平取町二風谷アイヌ語教室/萱野茂二風谷アイヌ文化資料館

調査:高原実那子/小嶋宏亮/長岡伸一/野口泰弥/平田剛士 編集:平田剛士 StoryMaps制作協力:株式会社インターリージョン(酪農学園認定ベンチャー)

制作・著作 平取町二風谷アイヌ語教室 森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト/さっぽろ自由学校「遊」/市民外交センター This research was produced with the support from the David and Lucile Packard Foundation. この研究は、The David and Lucile Packard Foundationの支援を受けています。

北海道の森林シェアの変遷 北海道『北海道山林史』(1953年)p9の一覧表「北海道森林所有別面積の変遷」の数値に基づいて作図。同一覧表は、1906(明治39)年までは北海道史第7巻及国有林事業成績より、1911(明治44)年度以降は「北海道森林統計書」(大正4年発行)及1921(大正10)年度以降1939(昭和14)年度まで毎年発行された北海道庁拓殖部編「国有林事業成績」による。