
キムンカムイ/ エゾヒグマ
二風谷アイヌ語教室広報紙から
1988年から2009年まで、21年間にわたって発行された「二風谷アイヌ語教室」広報紙。全89号の中には、地元で生まれ育ったフチやエカシたちが語った森・川・海にまつわる思い出や伝承がたくさん記録されています。このStoryMapsでは、そのうちキムンカムイ(エゾヒグマ)にフォーカスします。
01 / 07
1
1936年ごろの記憶、大古津内
K.S.さんの証言 5歳くらいの頃の記憶ですが、この地に■■■オッテナ(その当時60歳くらいのおじいさん)という村長がおり、その人の「ポロチセ」(大きい家)は大宴会の出来るほど大きな家でありました。この家は本葺きの大きな素晴らしい家で、ある時「イヨマンテ」(熊送り)が行われ母に連れられて行きました。大変な人出で子供など何処にいるか分からないくらいでした。それでも母は私に熊の肉が一切入った三平皿を手渡してくれ、食べた覚えがあります。(1989年発行・第5号)
2
1948年10月の記憶、門別町庫富
M.K.さんの証言 父、■■シランペアシは狩人でした。昭和23年10月に父が熊を捕り、その熊の「熊送り」を20人ほどでやりました。この熊は父の捕った最後の熊でした。(1989年発行・第8号)
3
1926年ごろの記憶、貫気別
K.S.さんの証言 私が13歳の時、本当に悲しいことにイコアンレキエカシが亡くなりました。エカシは当時頼まれて山の探検(=地質調査)をしていましたが、具合が悪くなったので山から帰り、3カ月もしないうちに60歳ちょっとの若さで亡くなってしまいました。その後私は苦労が続くことになりますが、いつも「エカシが生きていてくれたらこんなに辛い目にあわずにすんだかもしれないのに」と思いました。けれども私は小さい時にエカシに仕込まれて本当に幸せだったと思います。エカシはイソンクㇽ(猟の名人)だったのでよく熊を獲り、各部落の立派な人たちを呼んで2日も3日も続く盛大なイヨマンテをしました。ユカㇻが始まる時には、レㇷ゚ニ(拍子棒)を作るのが私の役目でしたが、一緒になって夜通しレㇷ゚ニを叩いていました。おかげで今でもユカㇻを楽しんで間くことができます。また、女はカムイノミするものではないと言われはしますが、私は今でも1年に1回2回は必ずエカシがカムイノミしていた場所へ供物を持って行き、「はやり病があった時にもエカシがここでコタンエプンキネ(村を守る祈り)をしていたので、私が生きている間はこうさせていただきますよ」と言いながらカムイノミしています。本当にエカシのことは一生大事に思っています。(1990年発行・第11号)
4
1936年の記憶、ペナコリ沢
A.Y.さんの証言 昭和10年の6月、父がペナコリ沢でクマを捕ったことがあります。私は妊娠8か月の大きなおなかで昼寝をしていました。ちょうどその時、父が走って戻って来たかと思うと、道具箱から鉄砲を出しケースに弾を入れてから「ペナコリの沢さ入ったらクマがいま通った跡があった。だから鉄砲を取りに来たんだ」といってまた走って出かけました。それから1時間くらいして父が戻り、私の旦那に向かって「クポホ(私の子供)、俺クマ殺したからコタンの人、誰かいたらクマ殺したといってこい」と言いました。うちの旦那は、急いで(■■)金次郎アチャポや■■(忠雄)おじさんなどに知らせました。知らせを受けた村人はクマが捕れたことを喜び、みんなペナコリ沢へ向かって走って行きました。おっかない(恐しい)ものでも何でも見たいと思って、大きなおなかを抱えて沢を遡りました。沢が二股になった(上流に向かつて)石の沢の現場へ着くと「そったら格好して何しに来た」と父に叱られました。クマは前足と後足が縛られており、縛ってある足と腹の間に長いボッコ(棒)を渡し、みんなで棒の前と後を担ぎながら沢をおりてきました。そのクマはうちまで連ばれ、家の東側にすえられているヌサ(祭壇)の後に置かれました。父はその時「樺太や千島などにも行って、今までに俺はクマを百頭は捕ったぞ」と言っていました。aそのクマを解体した時など腹の中にたまった生血を荷負の警察官やほかのシサム(和人)も飲んでいたのを見ました。イヨマンテ(クマ送り)に使うどぷろくをシントコ(行器)に仕込んだり、イユタ(穀物を掲く)して粉をつくりそれで団子を作ったりしました。仕込んだどぶろくは2日か3日おいて使います。イユタを始めてからクマ神の霊を神の国へ送るまでに5日くらいかかったと思います。この「クマ送り」のあと、ペナコリでクマ送りをやったのを見たことはありません。(1995年発行・第36号)
5
話者は1920年、門別町庫富生まれ
A.W.さんの証言 お祝いごとと言えば、やはりイヨマンテ(熊送り)のときはにぎやかでした。ドブロクつくったりね。もちろん熊の檻のまわりでもホリッパしましたよ。たまにではなく、毎年けっこうあったように覚えていますが、飼っていた小熊を送るイヨマンテのときには盛大にやりました。同じムラだけではなく、遠いところからもたくさん人を招いてやりますから。熊を山でとった時には、近くの人たちだけに声をかけてやっていたようです。(1996年発行・第43号、聞き手/米田秀喜氏)
6
1930年12月の記憶、二風谷
H.K.さんの証言 ニール=ゴードン=マンロー博士が昭和5年12月に二風谷で行ったイヨマンテ(熊送り)を見ました。その時には■■国松さん一太郎さん兄弟、■■清太郎さんなどがいたのを覚えています。しかし、誰が祭主を務めていたかはわかりません。熊は■■善助さんのところで飼われ、その熊送りは■■善助さんの家の裏手でおこなわれました。当時、私の姉が結核を患っており「熊の血を飲めば治る」と言われ、その血をもらって姉に飲ませた記憶があります。私のハボ(母親)がこの熊送りに使うドブロクを作りました。ヒエをイユタ(臼と杵で搗く)で半搗きにしてそれを炊き作っておいた麹を混ぜて、たがの付いた大きな桶に移し酒を造りました。ドプロクの出来具合いを見るために味見を何回かしますが、その時に少しだけもらって飲んだことがあります。ドブロクは結構きつい酒になります。熊送りの時には、(直径20センチくらいの)大きな団子を作りそれを三つに切り分けたものをもらって食ぺたりしました。また、「熊送り」に集まって来た人たちがホリッパ(輪踊り)をしていたのを見た覚えがあります。(2000年発行・第65号、聞き手/萱野志朗氏)
7
1955年ごろの記憶、紫雲古津
N.T.さんの証言 アイヌと言うと狩猟民族だと思っているかも知れないけれども、かつてアイヌ民族の三代か四代くらい前までは狩猟生活という時代もあったでしょうが、私の孫爺さん(祖父)の代からだんだんと農耕生活へと変わってきました。そういう生活様式であっても、私の少年期頃まで、父は村田銃で猟をしていました。しかし、もうその頃は狩猟が生活の生業ではありませんでした。私も父母の手伝いをするうち農業が本業となりました。冬の農閑期になると、父はシカやウサギを獲りに山へ行くことがありました。私は父の後についてよく一緒に山へ行きました。私は狩猟が元来嫌いではないので、猟の収穫があろうと無かろうと関係なく、父と一緒に山へ入った楽しい思い出がたくさんあります。ヤマドリやウサギは散弾で、シカやキムンカムイ(ヒグマ)には実弾を使います。どこで習ったのか知りませんか、父は弾の鋳型を持っていて実弾も散弾も手作りしたものを使っていました。父は65~6歳頃まで猟をしていました。父はある時、紫雲古津小学校の裏山にあるハルコロナイという沢でキムンカムイ(ヒグマ)を仕留め、久しぶりに紫雲古津でイヨマンテが行われました。イヨマンテの写真には祖母の嬉しそうな様子が写っています。そのイヨマンテは今【インタビューは2005年=引用者注】から50年も前のことです。私が定時制高校から家に戻ってみると、家中が人だかりだったので何事かと思ったら、家の外にはキムンカムイが櫓(やぐら)に組んだ木に縛り付けられていました。本当に大きなクマで、脚は大木くらいの太さだったのを覚えています。私はまだ二十歳前でした。当時のウレハル(足の肉)は貴重なものでした。イヨマンテに集まって来た人たちには例え1センチ角、2センチ角でもいいから等しくみんなで食べましょう、というやり方でした。みんなは喜んでイヨマンテに集まって来ました。クマを解体した時に腹の中に溜まった血を祖母はお腕ですくって飲んでいました。宗教的なものか健康を考えての事だと思うのですが、祖母は嬉しそうに飲んでいました。(2005年発行・第80号、聞き手/萱野志朗氏)
解説 ヒグマをめぐる先住権
平田剛士(フリーランス記者、森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト運営委員)
「二風谷アイヌ語教室広報紙」には、たくさんの種類の動植物についての思い出話が登場しますが、哺乳類のうち、最多の登場回数を誇るのが、このキムンカムイ=エゾヒグマです。エカシたち、フチたちがここで語っているのは、1920年代から1950年代にかけて、沙流川のほとりで実際に体験した、クマにまつわる出来事の記憶です。
9つの物語のうち8つまでは、クマ猟や、猟で仕留めたクマの「送り」の儀式、またクマのお肉をみんなで平等においしくいただいた、という幸せな思い出として語られています。残るひとつは、深夜の山小屋で寝ているところにクマが入ってきて肝を潰した、という体験談ですが、年長者の落ち着いた対応でことなきを得ます。これもハッピーエンドの笑い話といえるでしょう。
どの話者も、キムンカムイ=山の神に対して深い畏敬の念を抱いておられることが、とてもよく伝わってきます。それはたぶん、コミュニティにこんな自然観が伝えられてきたからでしょう。
イウォㇿコㇿカムイ(猟場を司る神)、つまり森林はシカとかクマ、あるいはキツネやウサギを養ってくれていて、必要に応じていつでも食料として提供してくれる神。山はアイヌにとって、いつでも食料貯蔵庫であったのです。このように、アイヌがなんらかの形で恩恵を受けているものに対し、お礼の意味で神として祭ったというのが、アイヌと神との関係なのです。……クマは神の国からアイヌの所へ、毛皮という広い風呂敷に、肉と薬を包み、背負って来てくださる神とアイヌは考えていたのです。
これと対照的なのが、当時の北海道の和人社会の対ヒグマ観です。
1915年12月に苫前(とままえ)郡苫前町三毛別(さんけべつ)で、また1923年8月には雨竜郡(うりゅうぐん)沼田町幌新(ほろしん)で、それぞれ一頭のクマの襲撃によって、入植者たち7人、5人が死亡する惨事が発生。各地の開拓地の入植者にとっては家畜や農作物の被害も大きな脅威で、とくに家畜被害は1960年代まで高い水準が続きました。とりわけ1962年の「大量出没」をきっかけに、北海道は捕獲者に報奨金を支給する「ヒグマ捕獲奨励事業」をスタートさせます。当時書かれたヒグマに関する啓蒙書には、「ヒグマは人間の敵、文化の敵」(阿部泰三『熊百訓』山音文学会、1963年)との記述がみられます。 1
人里に出没する個体を捕獲するだけでは被害が減らないため、残雪期に森に入って積極的にクマを獲る「春期捕獲(春グマ駆除)」が立案され、1966年に事業化されました。事実上、ヒグマの絶滅をめざす政策でした。日本の鳥獣行政には、エゾオオカミ=ホロケウカムイを絶滅させた“前科”があります(1897年ごろ)。
1915年12月
苫前町三毛別で、入植者の家屋が次々にヒグマの襲撃を受ける。1頭のヒグマにより7人死亡
1923年8月
沼田町幌新で、入植者がヒグマの襲撃を受ける。5人死亡
1955年3月
北海道が「熊送り儀礼」禁止を通達
1958年
のぼりべつクマ牧場建設
1962年
ヒグマの大量出没による人畜への大量被害発生。全道でヒグマの襲撃により死者3人、負傷者4人。綿羊、牛など家畜749頭が食害を受けた
1963年
北海道が、「ヒグマ捕獲奨励事業」スタート。捕獲者に奨励金を交付
1966年
北海道が、捕獲の容易な残雪期にヒグマ生息域内で積極的な捕獲を実施する、いわゆる春グマ駆除を開始
統計によれば、「ヒグマ捕獲奨励事業」が始まった1963年から、「春グマ駆除」を中止した1990年までの27年間に、計1万1984頭のヒグマが捕殺されました。
「北海道ヒグマ管理計画(第2期)/別冊参考資料編」資料4 ヒグマ捕獲数
ヒグマに対する入植者マジョリティのこうした価値観や政策、またそれによるヒグマ生息域の縮小・分断などが、沙流川流域を含む各地のアイヌ・コミュニティの伝統的な考え方・ふるまい方に影響を及ぼした可能性は高いと思われます。
加えて北海道は1955年3月、「熊送り儀礼」の禁止を通達。〈アイヌにとって最も重要な伝統儀礼のひとつ〉(財団法人アイヌ文化振興・研究機構「アイヌ生活文化再現マニュアル/イオマンテ 熊の霊送り【儀礼編】」2005年、 https://www.ff-ainu.or.jp/manual/files/2005_12.pdf )を一方的に禁じたのでした。各地で儀式は途絶えました。30年あまり経って、一部の地域で再開が試みられたとき、それはふだんの生活の一部というより、大上段に〈若い世代が受け継いでいくことを目的〉(前掲書)に掲げた、文化復興・伝承のためのイベントに変質していました。
1955年
北海道が「熊送り儀礼」禁止を通達
1989年
財団法人アイヌ民族博物館(白老)がイオマンテを再現
1990年
北海道が、春グマ駆除制度を廃止
1991年
環境庁が、「石狩西部のエゾヒグマ」を「絶滅の恐れがある地域個体群」としてレッドデータブックに記載
入植者植民地主義(セトラー・コロニアリズム)によって先住民族の立場に囲い込まれ、図らずも自由に続けられなくなった数々のことを先住民族の諸権利=先住権と呼ぶならば、フチたちエカシたちが「二風谷アイヌ語教室広報紙」に語ったキムンカムイにまつわる数々のストーリーもまた、いま修復すべき先住権の姿を指し示している、といえるでしょう。
1 間野勉「第11章 現代社会におけるヒグマ」/増田隆一編著『ヒグマ学への招待 自然と文化で考える』北海道大学出版会、2020年
利用上の注意 このストーリーマップス「『二風谷アイヌ語教室広報紙』から」は、同広報紙の編集責任者で、現在は萱野茂二風谷アイヌ文化資料館館長を務めていらっしゃる萱野志朗さんから、「森・川・海のアイヌ先住権を見える化するプロジェクトに、ぜひ役立ててほしい」と、この貴重な資料の提供を受け、その全面的な協力のもとに制作されました。萱野さんをはじめ、この広報紙の執筆・編集・発行に尽力されたみなさん、また登場のフチ・エカシのみなさんに、心から感謝します。
プライバシー保護 このストーリーマップスの元になった「二風谷アイヌ語教室広報紙」(印刷版、CD-ROM版)の記事には、証言者のお名前は実名、また証言に登場する人名も実名で記録されています。そこから抜き書きにした文章を利用し、ストーリーマップスとして広くインターネット上に公開するにあたり、ご本人やご家族に間違っても不利益が及ばないよう、すでに著名な人権活動家のお名前をのぞき、原則として証言者のお名前はイニシャルに変え、証言に登場する人名は姓を■■で伏せました。
ご利用を歓迎します このストーリーマップス作品は、証言者・執筆者・編集者・制作者とも、著作権を放棄していません。どうぞその権利を尊重してください。しかし、かんたんなルールさえ守っていただければ、コピー&ペーストの引用・転載をむしろ歓迎します。ルールとは、 (1)記事の一部を切り取って元の記事の主旨を曲げたりしないこと、 (2)引用元を明記すること、 (3=ウェブの場合)引用元にリンクを張ること、 の3つです。インターネット上に限らず、地域のみなさん同士の会合などで、このストーリーマップスを共有し、議論を深めるためのツールとしてお役に立ててもらえれば幸いです。(平田剛士/森・川・海のアイヌ先住権プロジェクト 2023年10月15日記述)