
カムイチェㇷ゚/サケ
二風谷アイヌ語教室広報紙から

1988年から2009年まで、21年間にわたって発行された「二風谷アイヌ語教室」広報紙。全89号の中には、地元で生まれ育ったフチやエカシたちが語った森・川・海にまつわる思い出や伝承がたくさん記録されています。このStoryMapsでは、そのうちカムイチェㇷ゚(サケ)にフォーカスします。
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1938年ごろの記憶、荷負本村・糠平川
K.O.さんの証言
夏から秋にかけては、ラウォマプ(梁)に鱒や秋味(鮭)が入っているかどうかをエカシと一緒に見回ったりしました。そして捕れた鱒や秋味は串焼きにして食べました。鱒の方が秋味より脂がのっており旨かった。ですから私は夏の間じゅう土曜日が来るのを楽しみにしながら学校に通っておりました。
エカシは10月になると宿主別(しゅくしゅべつ)の牧場から引き上げてきます。11月頃になると毎晩のようにエカシに秋味捕りに連れていってもらいました。その川は荷負(におい)本村の南側を流れている糠平川(ぬかびらがわ、沙流川の支流)です。ある時、エカシが煙草を吸うために待ち鈎を私に押さえるように言いました。すると間もなく鈎に秋味がかかり、この時の感触は忘れられない思い出です。この頃は毎晩4~5本の鈎に秋味が捕れました。また1年中食べるほどではないけれども秋には20~30本の秋味を塩漬けにしたものです。現在はあれほど自由に捕れた魚も自由に捕ることのできない時代になってしまった。過去のことを思えば、鹿にしろ秋味にしろ自由に捕ることのできた時代があったのにも拘わらず自由に捕ることができないとは悲しいことです。二風谷ダム建設に反対し鮭の捕獲権回復を主張している萱野茂さんの言い分は当然だと思っています。(1989年発行・第7号)
1943年ごろの記憶、貫気別村宿主別
K.S.さんの証言
それから小学校 5 年生くらいの時、私のエカシ(祖父)でエトンピアというのが平取村の宿主別の牧場で管理人をしていました。今度は母方のフチ(祖母)と貫気別(ぬきべつ)から宿主別まで歩いていくんだよねえ。そのエカシはアキアジ(シャケ)を捕ってくれた。朝早くアキアジを捕りに行っていたねえ。(1996年発行・第42号、聞き手=萱野志朗氏)
1947年ごろの記憶、紫雲古津の沙流川
A.Y.さんの証言
昔、平取本町から佐瑠太(さるふと、現在の富川)の間を軽便鉄道(沙流軌道)という汽車が走っていました。私は魚釣りが好きだったので、釣り場へ行くために走っている軽便へ飛び乗りました。軽便がトントコ走っているから釣り棹を担いだまま飛び乗るのです。ある時、平取村役場に勤めていた人に「危ない」って叱られて拳骨をはられたこともあります。平賀(ぴらが)と紫雲古津(しうんこつ)との間は少し上り坂になっているため、軽便のスピードが落ちるのでその時に飛び移ります。釣り場の近くへ来たら飛び降りるのです。
さらに、アキアジ(シャケ・鮭)が遡上する頃になると、茅を直径12センチくらいの太さに束ねて松明(たいまつ)を作ります。その松明で水面を照らしながら鉤でアキアジを引っかけて捕ったりしたこともあります。
紫雲古津にはウナギがいっぱいいました。小学生の頃、4支線という沢でウナギ捕りをしました。胴周りが15センチ以上の本当に太いウナギがたくさん遡ってきました。また、冬の2月頃になるとこの沢の氷を割ってウナギを捕まえます。ウナギのいる所はわき水の湧いている所なのでその辺りの氷を割って水を全部かきだします。そして、ウナギ鉤を使ってぐうっと引っかけて捕まえます。富川の沼田旅館へウナギを持っていくと、1匹いくらと値を付けて買い取ってくれました。子供たちはお金になるので喜んでウナギを捕まえては旅館へ持ち込みました。(1998年発行・第54号、談、取材・構成=萱野志朗氏)
1939~1940年ごろの記憶、貫気別村宿主別
K.S.さんの証言
私のエカシ(祖父)・エトンピアは、宿主別にある村営の牧場で管理人をしていました。私が9歳の頃、《母方の》フチ(祖母)と二人でその牧場のある宿主別までアキアジ(鮭)をしょうために行きました。エカシは「サチ ホプニ。カムイチェㇷ゚ コイキ クス アラパ アン クス ネナ ホクレ ホクレ」(サチ起きろ。アキアジ(鮭)を捕りに行くぞ、急げ急げ)と言いました。私の名前はエカシが「サチ」と付けてくれたのですが、どういう訳か戸籍上は“サチ子”となっています。
エカシはラウォマㇷ゚というクトゥ(梁)を作り、たくさんアキアジ(鮭)を捕りました。その魚をフチが焼いて干し、何日か前に焼いて千し上がったサッチェㇷ゚をフチと二人でしょって貫気別まで戻ってきます。フチはとても小柄な人で9歳の私と同じくらいの体格でしたが、どこへ行くにも歩きなので足は丈夫でした。(2003年発行・第71号、談、取材・構成=萱野志朗氏)
1933年ごろの記憶、二風谷の沙流川
萱野茂さんの証言
私の参議院時代、アイヌ文化振興法を実現させた。しかし、アイヌが主食にしてきた鮭を獲る権利は奪われたままである。私が小学校に上がる前、すでに鮭の捕獲は禁止されていた。それでも鮭を獲りに行って近所のおばあさんに食べさせた父は、密漁の罪で逮捕された。
アイヌは、産卵期の鮭はその日に食べる分だけを獲る。多くは産卵を終えてから獲り、背割りしたあと寒風千しして保存用にした。味は落ちるが、1~2年たっても食べられる。鹿やクマなどどんな動物も、けっして根絶やしにしなかった。しかし現在、アイヌは札帳で年間20匹、登別で5匹を獲る権利しかない。
私が鮭の捕獲にこだわるのは、鮭かアイヌの食文化の象徴だからで、お金儲けのためではない。国や北海道が禁止するのは、アイヌの権利をひとつ認めれば、他の分野に要求が広がり、しまいには北海道の領有権にも及ぶと心配しているからだろう。
確かに、アイヌは北海道を日本国に売った覚えも、貸した覚えも、条約を結んだ覚えもない。しかし、今さら返せと実現不可能なことを言わない。わたしは、日本人と一緒にアイヌ・モシリの自然を守っていきたいだけだ。(2004年発行・第75号。初出は「週刊朝日」2002年11月22日号)
1967年ごろの記憶、沙流川
H.H.さんの証言
昭和42年頃から数年間刺し網 [刺し網]を使い沙流川でサケやマスを捕ったことがあります。うちで食べる分だけですが、1回に8~10本を捕ってきました。氷頭とシラコでぬたを作り食べたり、塩をまぶして焼いて食べました。昔のシャケは脂が乗っていて旨かった。いま店で売っているシャケは、川で捕ったものと比べるとなんかパサバサしていてそんなに美味しくないような気がします。 (2004年発行・第76号 談、取材・構成=萱野志朗氏)
解説 サケをめぐる先住権
平田剛士(フリーランス記者、森・川・海のアイヌ先住権研究プロジェクト運営委員)
「二風谷アイヌ語教室広報紙」にインタビューが掲載されているエカシたち、フチたちのうち、合わせて6人のみなさんが、1930年代から1960年代にかけての沙流川のカムイチェㇷ゚=サケの思い出を語っておられます。一読お分かりのように、すべて沙流川、またその支流の額平(ぬかびら)川でのサケ漁にまつわる記憶です。「ラウォマプ(梁)」や刺し網でサケを捕ったこと、たいまつを焚いて夜漁をしていたこと、現地で素焼きしたサケを数日かけて干して「サッチェプ」をこしらえ、家族と背負って家庭も持ち帰った思い出など、実際に体験した人でなければ語れない、リアルなお話ばかりです。
しかし、萱野茂さんの証言にあるとおり、〈私が小学校に上がる前、すでに鮭の捕獲は禁止されていた〉。ある晩、突然家にやって来た巡査が、家族たちの目の前で父を密漁者として連行していった時の記憶を、萱野さんは後年、当時味わった屈辱感とともに語り続けました。〈アイヌが主食にしてきた鮭を獲る権利は奪われたまま〉の言葉は、「サケにまつわるアイヌ先住権」のおかれた状況を、まさに浮き彫りにしています。
北海道における「川サケ」禁漁制のおもな経過
1876年
開拓使がテㇱ漁、夜漁禁止
1878年
開拓使が曳網以外の漁具禁止、支川禁漁
1888年
北海道が北海道水産物取締規則
1894年
北海道が「鮭鱒ノ泝上スル河川湖沼ノ漁業並鮭鱒ノ沖網漁業制限」
1897年
北海道が「北海道鮭鱒保護規則」。自給のためサケ漁を禁止
1903年
北海道漁業取締規則制定
1951年
水産資源保護法成立
1964年
北海道内⽔⾯漁業調整規則制定
もうひとつの注目点は、沙流川水系における当時のサケ漁場の位置です。
K.S.さんの物語の舞台は、「貫気別村(ぬきべつむら)宿主別(しゅくしゅべつ)」。太平洋に注ぐ河口から沙流川本流をおよそ30kmさかのぼり、支流の額平川(ぬかびらがわ)を東進してさらに20kmも内陸に入り込んだポイントです。標高はおよそ130m。1943年当時の沙流川では、海からこんなに離れた高原地帯まで、たくさんサケたちが遡上していたのです。
同じK.S.さん、またK.O.さんのお話に登場するラウォマㇷ゚は、ヤナギの細枝を並べてシナの縄で結び合わせ、全長3m、直径60cmほどの円錐形に仕立てる巧妙な川漁具。〈奥山の自分自身のイゥオロ(漁区)で、小沢で産卵するますをとるのに用いられました。鮭は川幅の広いところで産卵するため、たいていは丸木舟を使うヤㇱヤという網やマレㇷ゚でとりますが、支流などの比較的川幅の狭いところではラウォマㇷ゚で鮭をとることも行なわれていたようです〉(萱野茂『アイヌの民具』すずさわ書店、1978年)。おそらく漁のたび、現地で材料を調達してこしらえるやり方だったのはないでしょうか。
ラウォマㇷ゚ 萱野茂二風谷アイヌ資料館蔵。 1991年、二風谷・貝沢貢男さんほかによる製作。 同館の許可を得て、2023年10月23日撮影。
子ども時代の彼女たちは、祖父や祖母と一緒にそのラウォマㇷ゚を使って、「荷負(におい)本村の南側を流れている糠平川」や、さらにその上流に位置する「貫気別村宿主別」でサケを捕っていました。そのサケたちは間違いなく、世代交代のためにはるばる海から帰ってきた、この場所生まれのサケたちでした。
でもいま、同じ額平川で、あるいはその下流域の沙流川本流でも、サケの自然産卵を見るのは、ほぼ不可能です。沙流川に回帰してくるサケ親魚のうち、90%は沿岸定置網で捕獲され、残り10%も沙流川河口からほど近い場所に設けられたサケ人工孵化施設に送られて、それ以上の遡上と自然産卵を許されないからです。つまり、システマティックな商業漁業のせいで、沙流川を遡上してくるサケの数自体が、きわめて少ない状態がずっと続いています。
じゃあもし、沿岸部や河口付近での捕獲するのをやめたら、二風谷の沙流川や荷負の額平川にまでサケたちがまた帰ってきてくれるでしょうか? これまた残念ながら、そうは思えません。
1970年代から2020年代にかけて、建設省・国交省が建設した巨大な「二風谷ダム」や「平取ダム」が、沙流川の自然環境を激変させてしまったからです。かつてサケたちが産卵のために集まってきた美しい砂利河原はいま、広大なダム湖の底に沈み、砂泥が厚く堆積し続けています。

沙流川を堰き止める二風谷ダムの堤体
沙流川を堰き止める二風谷ダムの堤体. Click to expand.
2022年7月21日撮影。

平取ダム上流の額平川(沙流川水系)
平取ダム上流の額平川(沙流川水系). Click to expand.
2022年7月21日撮影。
1982年
北海道開発局が沙流川総合開発予定地の地権者に対する補償説明会。対象者183人のうち60人がアイヌ民族
1988年
二風谷ダム計画地地権者のうち、貝澤正氏・萱野茂氏を除く全員が収用補償条件に合意
1993年
貝澤耕一氏・萱野茂氏が、二風谷ダム計画地の収用裁決・明け渡し裁決の取り消しを求め札幌地裁に提訴
1996年
二風谷ダム本体工事完成。試験湛水開始
1997年
二風谷ダム裁判で札幌地裁がアイヌを先住少数民族と認定判決。訴えは棄却
2003年
国交省が「平取ダム環境調査検討委員会」、平取町が「アイヌ文化環境保全対策調査委員会」設置
2022年
平取ダム竣工
ここで改めて書き出すと、
- 川での自由なサケ漁の禁止
- 商業漁業によるサケ資源の独占
- 自然産卵を不要と見なす人工孵化増殖事業
- そしてとどめに2つの巨大ダム……
これから沙流川のほとりで「サケにまつわるアイヌ先住権」を復元しようと考えるとき、これら3重4重の障壁を一枚一枚、取り除いていく必要があります。
利用上の注意 このストーリーマップス「『二風谷アイヌ語教室広報紙』から」は、同広報紙の編集責任者で、現在は萱野茂二風谷アイヌ文化資料館館長を務めていらっしゃる萱野志朗さんから、「森・川・海のアイヌ先住権を見える化するプロジェクトに、ぜひ役立ててほしい」と、この貴重な資料の提供を受け、その全面的な協力のもとに制作されました。萱野さんをはじめ、この広報紙の執筆・編集・発行に尽力されたみなさん、また登場のフチ・エカシのみなさんに、心から感謝します。
プライバシー保護 このストーリーマップスの元になった「二風谷アイヌ語教室広報紙」(印刷版、CD-ROM版)の記事には、証言者のお名前は実名、また証言に登場する人名も実名で記録されています。そこから抜き書きにした文章を利用し、ストーリーマップスとして広くインターネット上に公開するにあたり、ご本人やご家族に間違っても不利益が及ばないよう、すでに著名な人権活動家のお名前をのぞき、原則として証言者のお名前はイニシャルに変え、証言に登場する人名は姓を■■で伏せました。
ご利用を歓迎します このストーリーマップス作品は、証言者・執筆者・編集者・制作者とも、著作権を放棄していません。どうぞその権利を尊重してください。しかし、かんたんなルールさえ守っていただければ、コピー&ペーストの引用・転載をむしろ歓迎します。ルールとは、 (1)記事の一部を切り取って元の記事の主旨を曲げたりしないこと、 (2)引用元を明記すること、 (3=ウェブの場合)引用元にリンクを張ること、 の3つです。インターネット上に限らず、地域のみなさん同士の会合などで、このストーリーマップスを共有し、議論を深めるためのツールとしてお役に立ててもらえれば幸いです。(平田剛士/森・川・海のアイヌ先住権プロジェクト 2023年10月15日記述)